特集/コラム

【エリア特集】2008-04-30

シンガポールの食文化は新たなステージへ
〜美食の祭典ワールド・グルメ・サミットから探る

「飲茶・ハイティー・屋台巡り」というのが、これまでシンガポールのグルメ観光のイメージだった。しかし堅調な経済発展に伴う国民所得の向上と外国人富裕層の増加を背景に、当地の食事情はここ数年で大きく変化している。シンガポールはもともと他民族国家だが、イタリア人やベルギー人のシェフが経営する高級レストランなどが次々と開店し、しのぎを削っている中、さらなる食の多国籍化の影響を地元中華料理も受けている。このような状況下で、シンガポールの食文化にどのような変化が起こっているのか?今年で12回目を迎えた「ワールド・グルメ・サミット(以下、WGS)」(4月7日〜26日開催)を通じてレポートする。

■シンガポールの美食文化を紹介するワールド・グルメ・サミット

1997年に1週間のイベントとして始まったWGS12周年を迎え、今年は3週間にわたって地元と世界中から集まった有名シェフがホテルやレストランでその腕前を披露した。ミシュラン・シェフをはじめとするシェフによる料理教室、セントーサ島やシンガポール動物園で敷地内を移動しながらのコース・ディナーなど、ユニークなイベントが数多く催された。

シンガポール観光局(以下、STB)とともに同イベントを主催するピーター・ニップ・ホールディングスのピーター・ニップCEO自身、タイ国王夫妻やクリントン大統領夫妻(当時)に招かれて調理した経歴を持つ元有名シェフ。ドイツ出身で、1978年のマレーシアを皮切りにアジア各国の一流ホテルでシェフとして働いていた。1991年からは5年半にわたってラッフルズ・ホテル・シンガポールの総料理長を務めた後、1996年にビジネスマンへと転進。常々アジアでは飲食業界関係者同士のコミュニケーションが不足していると実感していたことから、WGS運営のほか、出版やコンサルティング業務も手がけている。

「シンガポールの過去10年の食文化の成長には、目を見張るものがある。ファインダイニングに出かける人々も増えたし、自宅のキッチン環境にこだわる若いカップルも出てきた。確かに東京やパリに比べればまだ遅れているが、歴史も人口も違のだから比べるのは適切ではない。一方で、シンガポール人は価格に対して敏感だし、飲食に関わる人間に対する尊敬の欠如などの問題が残っていることから、完璧からは程遠い。しかし、独立国家としての43年の歴史の中でほかの国が50100年かかった社会的成熟を遂げてきたので、今後も美食文化が発展を続けることに、疑いの余地はない」とニップさんは語り、WGSがそのためのプラットフォームになることを願っているという。また中国の伝統文化において台所は家庭の中心だったので、食を大切にする土壌がシンガポールにはもともとある、とも分析する。

今やWGSSTBが支援するイベントの中でもハイライトの1つとなり、ニップさんはSTBから同イベントの継続を強く請われているという。WGSの将来の展望については、「来年の案がまだ固まっていないが、開催期間を短くする代わりに、年間を通じて34WGS関連のイベントを行おうという提案もある。シェフによる料理教室も、見学者と話したところ4分の3が参加型を望んでいた。時代の流れとともに、WGSは常に進化していくだろう」と話す。

■シンガポールの食の最前線で活躍するシェフ2

中国系シンガポール人でありながら、日本食のシェフとして昨年に引き続き、今年の「アジアン・エスニック・シェフ・オブ・ザ・イヤー」を受賞した「達屋(Tatsuya Japanese Restaurant)」のオーナーシェフ、ロニー・チアさん。2002年と2006年の「シェフ・オフ・ザ・イヤー」ほか、WGSで数多くの賞に輝いているフレンチ・レストラン「サン・ピエール(Saint Pierre)」のオーナーシェフ、エマニュエル・ストゥルーバントさん。シンガポールの料理界をリードする2人のトップ・シェフに、当地の飲食業界の現状と今後の展望について聞いてみた。


2人とも、最初からシェフを志していたわけではなかったという。ストゥルーバントさんは「法学部の学生で、犯罪学を専攻したいと考えていたが、たまたまアルバイトでレストランの皿洗いとしてキッチンに出入りするようになり、料理に興味を持つようになった。そして、悩んだ末にホテルの専門学校に入り直した」。チアさんは「家計を助けるため、13歳で大丸(当時)の日本食レストランで雑用係として働き始めた。シェフの仕事を見ている内に調理への情熱が芽生え、厨房の仕事に移してくれるようにボスに頼み込んだ。2027歳の間日本で修行を積み、最初は言葉もよく分からなかったし、修行は厳しくてとても大変だったけれど、力をつけることができた。そして30歳で独立することができた」と話す。

ベルギー人のストゥルーバントさんは、シンガポールでフレンチ・レストランを開いた理由として、「開店の手続きが簡単だし税率も低いので、非常に起業しやすい国だから」と説明し、「アメリカに2年、オーストラリアで5年働いていたが、オーストラリアでアジア料理に初めて触れて興味を持った。クアラルンプールで2年働いた後、香港かシンガポールに行くか迷った。人口の多さから香港を選ぶシェフも多いが、香港は中華料理が主流なのに対してシンガポールはコスモポリタンな雰囲気を持っていたので、僕はシンガポールを選んだ」と話す。ストゥルーバントさんは、日本食の素材も取り入れており「アジアに来たばかりのころはすべてが目新しくて、あらゆるエキゾチックな食材に手を出していたが、今は日本食の素材に落ち着いた。日本はフランスと一緒で四季があるのでよく似た食材が多く、取り入れやすい」とその理由を語る。才能のある外国人の受け入れに積極的な商業国家シンガポールの政策が、優秀なシェフの集まりやすい土壌を作り出しているようだ。

シンガポールの問題点として2人とも、「食材」と「人材」を確保する難しさを指摘する。食料のほとんどを輸入に頼っているため、業者の都合で新鮮な季節の食材や珍味の入手が困難な時がある。チアさんの場合は、日本の業者と直接取引して食材の問題を解決している。また、飲食店が相次いでオープンしていることから、サービス業のトレーニングをきちんと受けたスタッフが不足している上、終身雇用という概念が無いためすぐに転職する傾向も強い。下積み時代の長かったチアさんは、折を見ては「損して得取れ」という自分の経験を従業員に言い聞かせているという。「情熱を持っていい仕事をするには、しょっぱさ、甘さ、辛さ、苦さのすべてを受け入れる覚悟が必要だ」とも。ストゥルーバントさんは「僕自身の価値を高めれば、金銭の代わりなる付加価値を従業員に提供することができる。従業員とは一緒に食事や遊びに出かけたりして、家族のような信頼関係を築いている。キッチンではチームワークが必要だから」と話す。

チアさんとストゥルーバントさんにとって、WGSは世界中から集まったトップクラスのシェフと情報交換をして刺激を受ける貴重な場になっている。受賞したことで知名度も上がり、ビジネスにも弾みがついた。WGSはファインダイニングの習慣をシンガポールに定着させ、シンガポールの高級レストランを国際的レベルに引き上げることにも貢献してきた、と2人は評価する。

シンガポールの飲食業界で確固たるキャリアを築き上げた2人は今、シンガポールに自分たちが培った知識を返す時期にきていると考えており、後継者の育成に力を注いでいる。3人の見習いの指導にあたっているストゥルーバントさんは「僕はヘビーメタルを聴くのが好きなんだけど、それでも演奏の基本はクラシックだよね。彼らが将来自分の料理を見つけた時のために、今はソースの作り方から衛星管理やマナーも含めて基礎を徹底して教えている」。チアさんは「調理技術とビジネスの後継者は別。事業の引継ぎは簡単だが、技を伝えるのは難しい。やる気のある人間にしか教えられない。経験のない従業員を雇い入れる時は、態度を重視する。立ち居振る舞いから、その人間がどこまで伸びるのかを判断できる」と、一流のシェフを目指すには人間性が大切であることを説く。 

■日本人シェフ、フレンチの巨匠がシンガポールに紹介する日本の「旨み」

日本からは「オテル・ドゥ・ミクニ」(東京都新宿区)のオーナーシェフ、三國清三さんが42125日、創作中華レストラン「クラブ・シノワ(Club Chinois)」にゲスト・シェフとして招かれた。全日ほぼ満席という反響で、23日には料理教室も行った。

「僕の言葉はフランス語と日本語だけ。彼ら(参加者)は中国語と英語なので、もうボディー・ランゲージしかない。でもみんな志が高いので、僕の動作を観察してソースの作り方をメモったりと貪欲だった」と三國さん。

三國さんは、WGSの主催者であるニップさんがラッフルズ・ホテルの総料理長を務めていた時期に2度「ミクニ・フェア」を開催しており、世界料理大会の審査員としても2度来星。WGSは初参加ながら今回で5度目のシンガポール訪問であり、ニップさんとは旧知の仲。

12周年を迎えたWGSについて「モチベーションやレベルを高めていくには、やはり継続が大事」とその歴史を評価。「これからシンガポールは、東京に次ぐグルメのメッカになるのでは?『食は文化なり』ってよく言われますよね。東京もそうだけど、街が成熟すれば、そこで新たな食の展開をむかえる。F1の開催とカジノのオープンに伴い、これからシンガポールにはもっと世界中から人が集まって来る。シンガポールではビジネスが中心だけど、商談でも絶対に食が関わってくる。10年くらい前に来た時は、暑い気候のせいで、シンガポール人はホット(辛さ)とか刺激の強い味に慣れていた。でも今回気付いたけど、まだ日本に旅行したりしているハイクラスの人々に限られるが、昆布だしの味とかデリケートな味の感覚にどんどん進んでいる。侮れない。彼らは日本人や日本の食をものすごく意識しているし、日本人もうかうかしていられない」。

WGSにおける三國さんのキーワードは旨み。「甘い・酸っぱい・しょっぱい・苦いという世界共通の4味がある。旨みというのが5番目の味で、これは日本人が発見して今『UMAMI』として世界で共通用語になっている。旨みの素が昆布で、その成分は100%グルタミン酸。昆布を食べる人って、世界で日本人しかいない。その旨みに今、世界中が注目している。日本独特の旨みが外国人に理解できるのかというと、旨みというものがあってこそ、日本食が今現実に、世界中でブームになっているんだと思う」。

旨みにこだわる三國さんの今回WGSでのメニューは、マレーシア産川魚グルッパ Umamiコンソメスープ、ツナタルタルうずらのポーチド・エッグ添え、アボカドオイルとゆず醤油が香るビネグレット和え、葛ゼリー マロングラッセと季節の果物添え、など日本の食材の繊細な持ち味を生かした内容となった。しかし、「基本的な主材料も付け合せも、全部現地。なぜなら世界中どこに行っても、香りも風味も地元のものが一番おいしいから。日本のものを持ってきてやろうとすると、味が反発するので。確かに最初は使いづらいけど、お客様の意見を聞きながら調整していく。大体一日半くらいすると、ピッタンコですね。それが海外で仕事をする醍醐味」(三國さん)と話す。

日本で食育にも関わっている三國さんは、シンガポールの屋台やレストランがどこも家族や友人と一緒に食事をする人々であふれている光景に驚いた。「現地の人から、ハッピーか、楽しいか、とかよく聞かれます。日本では一人で食事をする孤食や、食卓で家族が全く違うものを食べたりする習慣が問題になっているが、こっちの人は仕事もするけど、家族や友達と一緒においしいものを食べる時間、ハッピーを大切にする」。社会が変化するにつれて、新しい問題や課題が生まれる。それを解決する鍵は人間の根源的な欲求である食にある、と三國さんは信じている。

■新たな局面を迎えるシンガポールの食文化

経済成長を続けるシンガポールの食文化は、成熟に向けて新たな局面を迎えている。機会にあわせて洗練された食事の雰囲気を楽しもうという考えが広まり、外食の基準がこれまでの「安くておいしい」一辺倒から多様になってきている。シンガポールにとって幸運なのは、政府が美食文化の繁栄がもたらす経済的効果の重要性を認識していることである。

公式の統計によると、飲食業界は2007年のGDPの1.3%を占め、雇用も前年比で13%伸び、13万5,100人に達した。F1やカジノの導入にあたっては観光客の増加が見込まれ、またシンガポールはアジア諸国や中東の個人富裕層を相手にしたプライベート・バンキングにも力を入れている。こういった裕福な外国人の落とす外貨を引きつけるには、洗練された食事の場が必要。シンガポールは、近隣諸国の富裕層に対して「パリにグルメ旅行にでかける代わりに、近場で旅費の抑えられるシンガポールで同水準のフレンチを」というアピールを試みようとしている。しかし高級レストランの並ぶ通りから道を一本曲がれば、昔ながらの屋台や食堂があふれている。これからのシンガポールの食の魅力は、肩の力を抜いた庶民的なアジアン・フードとレベルの高いファインダイニングの両方を同時に楽しめることだろう。

遊森 + シンガポール経済新聞編集部


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【関連HP】

ワールド・グルメ・サミット 公式サイト

ピーター・ニップ・ホールディングス

サン・ピエール

三國清三

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